皆さんのご存知の「宇宙戦艦ヤマト」は、アメリカでの「スターウォーズ」の大ヒットを遡ること3年、世界で初めて惑星間戦争をテーマにしたアニメとして、日本が誇るべき作品です。
現代の最新アニメと比較すれば、ストーリー展開や日本人しか登場しないキャラクター設定など、単純な面はあるものの、愛や人間の葛藤を盛り込んだ内容は万民向けで、その後の「機動戦士ガンダム」 などの宇宙戦争物アニメの礎とも言えるでしょう。
その成立には、初めて本格的テレビアニメ制作を手がけた手塚治虫氏の虫プロダクションの精鏡たちが結集。
さらには手塚氏と同じく気鋭の漫画家・松本零士氏が参画し、それぞれがアイデアを寄せ合った間違いない傑作なのです。
しかし、その成功の分け前をめぐり、原作者同士が仲違いし、熾烈な著作権争いを繰り広げました。
果たして、その背景にはどのような事情あったのでしょうか。
その理由を探るためにも、まず西崎義展氏という伝説的プロデューサーの人となりを理解するのが先決です。
西崎氏は1934年、日舞の西崎流家元の家に生まれました。
父親は東京大学法学部卒で日本興業銀行を経て、日本曹達などの重役を務めた人物。
西崎氏自身は家元の息子として将来を嘱望されたのですが、西崎流を立ち上げた母である初代・西崎緑が1957年に病没。
西崎氏は学生時代からの放蕩が崇って、実家を勘当されてしまいます。
もっとも名家であったためなのか、金銭的援助はそれなりにあったらしく、大学を休学しヨーロッパ旅行に出向くなど、何不自由なく青春を謳歌していました。
西崎氏は卒業生の東大合格者も多かった私立の名門・武蔵高校出身。
東大受験に2度失敗し、日大藝術学部に入学しました。
しかし、授業などそっちのけで好きなジャズ関係の仕事に精を出し、ドイツでも米軍ベース内のクラブで雑用係として働き、帰国後も六本木や新宿のクラブで司会を務め、時にはプロモーターにもなっていたのです。
やがて1934年に自身の事務所、オフィス・アカデミーを創設。
これが後にヤマトの制作元となりました。
西崎氏が音楽ビジネスにのめり込んだ1960年代初期はまだアニメ黎明期。
虫プロの版権部門だった虫プロ商事に、同社幹部から誘いがかかり、嘱託社員的な立場で入社するのです。
同社は伝説的な「COM」などの月刊漫画誌、また現在の漫画単行本の原型「虫コミックス」の刊行など出版業務を主としていましたが、元は手塚作品の海外販売、特撮テレビ番組の制作、パイロット版アニメ制作、グッズの著作権管理も業務内容でした。
テレビアニメ市場を切り拓いた虫プロでしたが、劣悪な制作条件ごと引き受け、その経営は恒常的に火の車。
社長の手塚治虫氏本人は実験アニメや映画の製作志向が強く、その費用を生み出そうとテレビに進出したのが計算違い。
赤字の埋め合わせを商事が担おうとしたのですが、1960年代を通じてのアトムブームはすでに去り、何を売り物にするかに悩んでいました。
さらに、1971年9月には組合争議の火の手が上がり、結果、手塚氏が商事の責任も引き継いで社長を兼務していたのです。
といっても、「COM」に「火の鳥」などを連載していた手塚氏は本業で当然のように多忙。
実務を社長代行の西崎氏が牛耳る形となったのです。
同年「ふしぎなメルモ」の朝日放送への売り込みに成功した西崎氏は、手塚氏からも敏腕と認められ、「彼がいれば、虫プロも安泰」とまで言わせました。
西崎氏は1973年春、アニメ制作には消極的な関西テレビと「ワンサくん」の放映を決め、そのために幼児向け新雑誌「てづかマガジンれお」を創刊するなどのメディアミックス戦略を打ったのです。
しかし、番組は低視聴率で「れお」は6号目で廃刊。
ますます赤字を膨らませる結果になってしまいました。
そんな中、西崎氏がドサクサに盲判を押させて、手塚のキャラクター版権を手中にしてしまうという事件が起きました。
買い戻すのに手塚プロは相当の時間と金額をかけたと言われています。
いずれにせよ次回作「海のトリトン」の制作に漕ぎ着けるための荒っぽい成り行きでした。
ただ、虫プロ商事はそれを待つまでもなく、1973年8月に累積赤字1億2千万円弱で倒産。
この倒産は、虫プロ本体とは直接関連がないのですが、マスコミが両者を混同し報道をしたせいで、虫プロ自体のイメージが悪くなり、同年11月5日に3億5千万円の負債を抱えて連鎖倒産してしまいます。
その後、手塚氏は西崎氏の名を耳にするのも嫌って、手塚プロ内では禁句に等しかったとか。
しかし、西崎氏の当時の仕事自体は評価されるべき部分もあったと言えます。
虫プロで演出の非凡な才を発揮しながらも、他のスタッフと折り合いが悪く燻っていた富野由悠季氏を「海のトリトン」の監督に抜擢。
音楽にもこだわり、ヤマトの宮川泰氏に最初に作曲を依頼した「ワンサくん」はディズニー風のミュージカル仕立てで、「海のトリトン」ではジャズの鈴木宏昌氏を起用、アニソンの定番としました。
西崎氏はまた熱心な創価学会員であり、その手腕の背後には学会の力もあったとも言われています。
西崎氏の商才は、学会の外郭団体である民主音楽協会(民音)で発揮されました。
民音主催の様々なイベントを成功裡に導き、学会並びに自身にも多大な利益をもたらしたのです。
ヤマト劇場版のヒットの裏にも、民音を通じ、かなりの数の前売り券を捌いた噂がありました。
自己破産や度重なる逮捕と拘留にも関わらず、不死鳥のように甦ったのにも巨大組織の支援は無視できません。
トラブルメーカーとして批難を浴びながら、大ヒットした2作目の劇場版「さらば宇宙戦艦ヤマト~愛の戦士たち~」(1978年)以降もヤマトをコツコツと作り続けてきた西崎氏。
そのテレビ版「字宙戦艦ヤマト2」は松本氏の主張が通り、乗組員全員が特攻というオリジナルの悲劇的ラストが修正されました。
また、3作目の「ヤマトよ永遠に」(1980年)では原作クレジットは松本氏と西崎氏の両名。
二人が話し合いながら物語の骨子を作り、監督の舛田利雄氏らが脚本にまとめ、それにさらに西崎氏の意見を入れたのだと言います。
少なくとも、この時点までは画者の共同作業は続き、松本氏は表記上も原作者でした。
しかし、それから10年の歳月が経ち、西崎氏が1995年~1996年にかけOVAとして新たに製作した「YAMATO 2520」には、松本氏のクレジットは「オリジナルデザイン」とだけあります。
1997年には西崎氏のオフィス・アカデミー改めウエストケープ・コーポレーションが倒産し、同作は未完ですが、従来のシリーズとは全く別個の作品と位置づけられています。
こうした動きが松本氏を刺激したのは間違いないでしょう。
1999年には松本氏のみをヤマトの著作権者だと主張する裁判を起こしました。
ほぼ同時に、小学館の月刊 「コミックGOTTA」誌上(2000年4月号から2001年7月号の同誌休刊まで)で「新 宇宙戦艦ヤマト」を連載。
これは前シリーズの1000年後という設定で続篇と見なされ、2002年にはアニメ映画化の構想もありましたが、諸事情でOVA「大YAMAT0零号」へと大幅に企画変更されています。
これを基にアミューズメント会社で関連商品が製作され、ヤマトの版権の現所有者・東北新社との著作権侵害訴訟となりました。
誰もが知る名作「宇宙戦艦ヤマト」には、こうした様々な舞台裏があったのです。
ちなみに西崎氏は1997年末と1999年にはそれぞれ覚醒剤取締法違反と銃刀法違反で逮捕。
松本氏との著作権に関する裁判も服役中に行われ、2002年3月に勝訴、翌年7月に控訴審で裁判外の和解が成立しています。
刑務所で服役後、2007年12月に釈放。
2009年公開のアニメ映画「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」を製作・監督となりましたが、2010年11月7日午後0時35分頃に、東京都小笠原村父島の海で、遊泳目的で停泊中のウエスト・ケープ・コーポレーション所有の船「YAMATO」から転落し、返らぬ人となりました。
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