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藤子・F・不二雄の代表作である「ドラえもん」。
テレビ朝日で第1回のアニメ版が放送されたのは1979年4月…
当初は月~土曜日に放送される10分間の帯番組として始まり、実に37年も続く、国民的長寿アニメとなりました。
しかし、テレビ朝日のアニメ版が放送される6年前の1973年に、日本テレビでもアニメ「ドラえもん」を放送していたことを知る人は少ないでしょう。
YouTubeなどの動画投稿サイトで、日テレ版のオープニングを見ることができるのですが、主題歌の趣は全く異なるのです。
ムード歌謡風のBGMにこぷしの利いた女性ボーカル…
最後に「ハァ!ヤッショマカショ!」と掛け声が入り、「♪ホイきたサッサのドラえもん」でしめる部分はまるで演歌です。
もちろん声優も違いました。
長らく続いた大山のぶ代の声の印象が強いドラえもんですが、日テレ版は、「平成天才バカボン」のバカボンのパパ役の富田耕生…
なんと男性が演じていたのです。
他のキャラクターの配役をみると、テレ朝版の声優が、こちらでは違う役柄で出演しているのも面白いものでした。
テレ朝版でのび太を演じた小原乃梨子は、日テレ版ではのび太のママ…
スネ夫役の肝付兼太はなんとジャイアン…
のび太役の太田淑子は、ドラえもんを過去に送ったセワシ…
まるで、パラレルワールドのようだったのです。
また、原作では、作者が「いなかったことにしている」幻のキャラクター”ガチャ子“がレギュラーになっていたり、ジャイアンの母親が、すでに亡くなっていたりとオリジナルの設定が多くなっています。
日テレ版が放送された1973年は、「ドラえもん」の漫画連載が小学館の学年誌でスタートして3年目…
知名度はまだ低かったのですが、期待はされていたようで、放送時間は裏番組に永井豪の「マジンガーZ」(フジテレビ系)があった日曜の夜7時でした。
しかし、その牙城を崩すことはできず、視聴率は5~10%と苦戦したのです。
そこで、途中からドラえもんの声優を、「ドラゴンボール」の孫悟空役でおなじみの野沢雅子に変更…
作者が「いなかったことにしている」幻のキャラクター・ガチャ子がドラえもんのライバルとしてレギュラー登場するなどのテコ入れが加えられましたが、視聴率が好転することはなく、1973年9月に終了したのです。
たった半年で終了する残念な結果に終わった日テレ版ですが、その壮絶な鐸台裏が関係者の証言で明らかになっています。
そもそも、アニメ化のきっかけは、日本テレビが新潟のアニメ制作会社「日本テレビ動画」に仕事を振る企画をつくるため、小学館にアニ
メ化できる原作の推薦を依頼したことだったといいます。
しかし、この日本テレビ動画は非常にきなくさい会社でした。
社長の新倉雅美が、前身の「東京テレビ動画」時代に社運をかけたアニメ映画制作で大失敗し、多額の負債を抱えたまま新潟に拠点を移し、新たに立ち上げた企業であったのです。
けれども、そんなことは露ほども知らない当時の藤子・F・不二雄は、「オバケのQ太郎」以来、長らくヒットを生み出すことができず、アニメ化の話をチャンスとみていました。
多くの制作用の資料を提供するなど、労力を惜しまなかったといいます。
しかし、アニメの視聴率は伸び悩み、終了直前の8月中旬に社長の新倉雅美が失踪してしまいます。
この噂が広まって現場は大混乱…
残された日本テレビ動画の関係者は、「入金の保証がないと納品できない」という下請けと、「絶対に放送に穴を空けないでくれ」というテレビ局との板挟みの中、なんとか最終回までこぎつけたといいます。
多くの未払い金を残したまま、最終回放送日と同日の9月30日に日本テレビ動画は解散しました。
その後、1979年4月にテレ朝版が始まり、大人気となったのは周知の通りですが、放送開始後すぐに騒動が起きています。
富山テレビが日テレ版「ドラえもん」を再放送し、これを知った藤子・F・不二雄が激怒…
小学館と連名で抗議して、わずか9回で放送をやめさせたのです。
制作会社がなくなった後も、日テレ版は、地方局で何度か再放送されていましたが、富山テレビの放送は時期が悪かったといえるでしょう。
テレ朝版が開始して間もない頃で、なんとしてもテレ朝版を成功させたかった藤子・F・不二雄は、声優や世界観が異なるうえ、現場が大混乱に陥った日テレ版を世間の目に触れさせたくなかったのでしょう。
以後、日テレ版の再放送はなく、ソフト化される可能性もない封印作品となったのです。
ちなみに、失踪した元日本テレビ動画社長の新倉のその後ですが、フィリピンに渡って映画制作事業を起こそうとしてうまくいかず、1986年、拳銃密に関わって逮捕されました。
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