いまでは多くの作品が国際的な評価を得ていますが、旧ソ連時代のキャリア初期には国内で厳しい批判にさらされ、数々の辛酸をなめています。
処女作「孤独な声」にいたっては、大学から廃棄命令が下った旧ソ連の幻の傑作、と言われています。
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1951年生まれのソクーロフは、74年、全ソ国立映画大学 (現・全ロ国立映画大学)の監督学部に入学しました。
しかし、作品をめぐって大学当局と衝突したのです。
ソクーロフの作品は、大学の上層部の人間には「反ソビエト的」と映ったのです。
ソクーロフを追放しろという声が上がるなか考えられた方法が、飛び級での卒業検定試験でした。
1978年、ソクーロフは仕方なく卒業作品を作ることになります。
それが、「孤独な声」でした。
ソクーロフは、ロシアの作家プラトーノフの短編小説「ポトゥダニ川」(1937)の映像化を試みます。
ソクーロフはドキュメンタリーの映画工房に所属していたため、作家を紹介するドキュメンタリーという企画で制作許可をとりましたが、実ははじめから劇映画を作るつもりでした。
大学からは企画書通りの約3分のカラーフィルムが支給されましたが、結局、計画の3倍もある約90分の長編に仕上がりました。
ソクーロフは自分でもフィルム(白黒)を調達していたのです。
物語の舞台は、1917年のロシア十月革命後のとある村。
反革命勢力を一掃するための内戦に赤軍兵士として参加していた青年ニキータが帰還します。
命は助かりましたが戦場で負った心の傷は深く、ニキータはどこかうつろな目をしていました。
ニキータとは対照的に、緑の散歩道で再会した幼なじみの女性リューバは明るさに満ちています。
やがてふたりは結婚しますが、幸せに耐えられなくなったニキータは姿を消し、市場の掃除人となります。
それはニキータにとって、生から死の世界に移り住むことを意味しました。
その後、リューバが湖で自殺未遂をはかったことを聞いたニキータは、「死の世界」から帰還します…
作品を観た指導教授のズグリジは、何も口をはさまず、ソクーロフをさっさと卒業させようとしました。
ところが、学長のヴィターリー・ジダンは認めず、こう言ったのです。
一定のタイプの工房で学んだのなら、それにふさわしい卒業制作を作るのがよかろう
ドキュメンタリーの工房に所属しているのならドキュメンタリーを作るべき、ということです。
ただ、ジダン学長が本当に気にしていたのは、原作者のプラトーノフでした。
プラトーノフは、ソ連社会に疑問を抱いたネガティブな性格の人物を描いたことから、1920年代末から非難を受けた問題の作家だったのです。
その当時でもまだ発禁となっている作品がありました。
「ポトゥダニ川」を忠実に描いたソクーロフの「孤独な声」では、赤軍に従軍したために心を病んだ青年が主人公であり、ソビエト体制に批判的と読み取れます。
大学としては、プラトーノフ原作の作品で卒業させるわけにはいきませんでした。
ソクーロフを擁護する人々は、映画関係者向けの試写会を開いて、学長の決定を覆そうとしました。
その動きを察知したジダン学長は、すぐに試写の中止を命令…
事務局は試写会の開催を阻止すべく、映画のネガとポジの廃棄を命じました。
廃棄だけは逃れたい…
ソクーロフたちは「孤独な声」のフィルムを「戦艦ポチョムキン」のフィルムと入れ替え、編集室から持ち出し、寮のベッドの下に隠しました。
そして、ソクーロフはそれ以上抵抗することなく、以前に撮っていた別のドキュメンタリーを提出して大学を卒業したのです。
安心して映画を作れる環境が必要でした。
レニングラードのスタジオ「レンフィルム」に赴いたソクーロフは、秘匿していた「孤独な声」を見せて、採用してもらったのです。
このとき実は、巨匠タルコフスキーがレンフィルムのスタッフにソクーロフの映画を観るよう口添えしていたようです。
彼は大学で「孤独な声」を観て、ソクーロフの才能を買っていたのです。
ソクーロフはその後、劇映画やドキュメンターリーを制作していきますが、どれもことごとく上映禁止になってしまいました。
潮目が変わったのは、1986年、ゴルバチョフ書記長がペレストロイカ(改革)を宣言し、情報公開が推し進められてからです。
87年、ソクーロフの作品群がついに解禁されます。
「孤独な声」も復元作業をへて、約10年の封印を解いて一般公開されました。
ロカルノ国際映画祭では銅豹賞を受賞。
ソクーロフは表舞台でのキャリアをようやくスタートさせたのです。
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